昭和50年07月12日 朝の御理解



 御理解 第26節
 「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 この二十六節をギリギリの言葉で申しますなら、神様を外してはここ一時でも立ち行かん、生きて行けないと言う事だと思う。神様のおかげを頂かなければ、私共は此処一寸動かれない生きて行けない。そういう神様を頂く限り確かに、連れはいらんのであり、成るほど日に日に生きるが信心と言う実感が伴うて来ると思います。それまでが連れを欲しがったり、連れがいる事になるのじゃないでしょうか。言うならばいつも神様とお二人、いわゆる同行二人と言う信心が出来たら、他に連れはいらない。
 いつも神様と共にあるんだという実感。そういう実感から日に日に生きる事が、信心だなと言う事を分からして貰う。理屈の上ではよく申します。我神と共にありと言う様な事を申します。けれどもそれが同行二人であり、いつも神様が連れであると言う生き方になったら、生き生きとした信心も生まれて来ましょう。生き生きとした体験も生まれて参りましょう。神様を外したら事実そうなんです。
 この神様の御恩恵を浴する事から外れたら、ここ一寸動けないのが人間です。だから信心があろうが無かろうが、そうなんですけれどもそれをそうだと信じれる所に、又はそれを信じて行こうとする所に、信心の稽古がいるんです。是は信心があってもなくてもそうなんです。私は天地の親神様の御厄介にならんでも生きて行けるという人は一人もありはしません。それは人間だけじゃない。
 生きとし生けるもの全てがそうなんです。だから信心とは、そう言う事実をふんまえてです、そう言う事実を事実として自分の心の中に頂いて行くと言う事を、神と共にと言う事になるのであり、そういう生き方が日に日に生きるが信心と言う事になるのです。お生かしのおかげを頂いていると言う、その事実をです。報謝の心神恩に対する報謝の心を向けて行く生きかたを、日に日に生きる信心生活と言う事になる。日に日に生きる日に日にお生かしのおかげを頂いている、その事が信心だと言うのです。
 だから大ざっぱに言えば、誰でもそれは合点がいかん事はありません。成程この神様のおかげを頂かなければと言う事。天地の親神様のおかげを受けんでも、生きて行けるという者は一人もない様にです、それを信心とは本当にそうだと、身も心もそう思えれる。例えば冷たい水の中に手を突き込んで、あぁ冷たいと思う様に、そういう実感なんです。畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通りおる様なものじゃと、教祖は仰っておられます。
 ですからそれを実感としては、どうあるかと言うと、まぁ朝露の薮の中を分けながら、サワサワとその音を聞きながら、その朝露に実際に濡れながら、そういう実感がなからなければいけないと言うのです。朝露に濡れる。分けて行けばサワサワと音がする。その音を聞きながらその朝露に濡れながら、そういう実感です。神の中を分けて通りおる様なものじゃ。神様の中を分けて通る様なものじゃ。確かにそうです。
 私がまぁだ神様から色々お知らせを頂いておった、まだ修業の時分でした。もうこんな事が続くなら、これは本当に気違いになるのじゃないだろうかと言う様な事があった。この畳の目の一つ一つが全部神様です。仏様です。一つ一つのこの目が。お大師様の様な人もござりゃ、冠かぶった方もあると言った様に、この目の一つ一つが仏様と言うのです。畳一枚の中に、どれだけの仏様神様がござるか分からん。だから勿体のうして、勿体のうして、畳の上が踏まれん。そういう実感の時がありました。
 その時でです。私は畔道なんかを歩く時には、靴を脱いてから歩きよりました。とても草ば、こうやって踏みにじって行くてんなんてん、こっちの方が踏みにじられる様な気がする。ハエなんか叩きよったら、私が横から行ってからその叩く人を叩きよった。実感ですから。道を歩いて行きながらこうやって、草やら木やらをち切って行く人がありますもん。私が後から行ってからパチッとその人の手を叩くと、あ痛よち言うからあんたでん痛かろうがのと草でん何でん、ひっち切って行くなら痛かばいと私が。
 それが実感でした。私の。今樺目の方に小さい庭がある。真中にお榊の木があります。あれがどうしてか、又が裂けた事があるんです。それが痛かろうごとして堪えんわけです。それからお神酒さんをこう拭いてやってから、御神米を蒔いてそれからその上から包帯をして、それで、裂けたのが繋がりましたからね。そう言う様な実感があるならばです。もう神様を共に頂いて行く。
 今日のご理解を一口で言うと、神様を外しては生きられんと言う事を、本当に分かると言う事なんです。それを大きく言えば例え死んでも、この神様のお世話にならん訳にはいかんと言う事実をね。私共が事実として実感として、それこそ朝露の分けて行く、サワサワと言う音を聞く様に、または実際に足元が朝露に依って濡れる様な実感なんです。それが神の中を分けて通りおる様なものだという事であると同時に、そういう神様を私共が頂けた時に、そこから起きて来る所の感動の生活とでも申しましょうか。
 それが信心生活。それが日に日に生きるが信心であります。私は今日のここの所を頂いて、今神様を外していかない。例えば草木でも葉もち切られん、畦道なんか歩く時なんか、靴を脱いで歩かんならんと言うなら、そげな事を本当にいつもしょるなら、気違いとしか言わないでしょう。けれどもそれは一時ではあっても実感だ。神様はそれを教えて下さったんだ。畳のこの目の一つ一つが神仏のお姿であり、どげん思うても足が上げられない、勿体のうして。
 そういう神様の中を分けて通る様なものだとは、そういう実感が、日々の中になからなければならんのぞと言う、そういう事を教えて頂いたのだと思います。そこでです。そういう神様をいつも身近に、成程同行二人であり、我神と共にありと言った様な実感の上に立った生活が出来るためには、どういう行き方にならせて頂いたらよかろうかと、思わせて頂いたら、高芝峰子と頂きました。ここの総代さんの奥さんの名前です。高芝高と峰と言うことは、これは最高峰の神という意味であると言う事。
 最高峰の天地金乃神様と言うことでしょう。芝という字は草冠に之と書いてある。そして私は、あゝ成程だと合点が行ったのですけれども、如何に自然と共にと言うか、神様と共にと言う事は自然そのものと成り行きそのものと、私共が一体にあらなければならないと言う事です。私共の上に起きて来る様々な成行きまたは問題。その事自体を神様の御働きとして受けて行くと言う行き方を身に付ける以外にはないのです。我神と共にありと言うことを、実感する事のためにはです。
 一寸テレビをつけたらテレビに画面がパッと映った。もうそこに神の声を聞く思いがしなければいけません。一寸新聞に目を通した。一番初めに目の落ちた所に、神の声があると言う様にです。そこに神の声を聞き神の姿を見て行く様な行き方を一つ身につけて行く。それを私は天地の働きに便乗すると言うか、リズムに乗った天地が奏でて下さる、リズムに乗った行き方だという風に申します。
 しかもこの行き方は愈々洗練されて参りますと、確かに素晴らしいリズムが奏でられておる事に気が付くし、そのリズムに乗った日々が出来るならば、成程信心は日に日に生きるが信心であると同時に、成程これなら連れはいらんなと言う感じが致します。神様をいつもこれに頂いて行く。そのためには私共が神様がピッタリ、こちらの心に寄り添うて下さるためには、こちらが先ずは神様のお心に、まず寄り添わなければいけんのです。日頃は神様に寄りわずしといて。
 只自分の都合の良か時たけ一寸テレビを見て、自分に何か答えて下さる様な事はないだろうか。それは大変離れたものですから、自分でそれを聞きとる事やら、見とる事はでけん。絶えず神様に寄り添うた心。それは成行きをいつも大切にしておるという生き方です。神様の御働きそのものを、いつも大切にしておる。神様に寄り添うておるから、神様が、昔、樺目の時代は御承知でしょうがね。
 まあだこちらの様な、お便所なんかでも、外にありました。お便所の中にはいつも新聞紙が切ってから、使う様に入れてあった。私がお便所から出て来ると必ず御理解だった。それはお便所の中で頂く、その小さい新聞の紙の中に、素晴らしい素晴らしい、いつも御理解があったと言うことです。あの時分はよう、私がお便所の中で頂いた、言うならば新聞の中にある文句の事から、よく御理解を頂いたもんですよ。
 だからこちらが神様に寄り添うておらずして、リズムを聞き取る事も出来なければ、リズムに合った行き方が出来る筈はありません。だからまずは私共は、神様に寄り添わせて頂くと言う。只神様の前に出ておる時、拝む時だけが、神様を身近に感ずるでなくて、いつも然もそこに起きて来る成り行きそのものをです。神様の御働きとして、それを頂いて行くという生き方。それが神様に、言うならば。
 寄り添うて行く事になります。だから神様の方がいつも、絶えず寄り添うておって下さる。それこそ子供の泣き声の中からでも、流行歌の文句の中からでも、神が物を言うて聞かすと仰る様なものを聞き取る事が出来、見て行く事出来るのです。そういう行き方の時には、もう外の連れは邪魔になる。是はもう心の問題です。心の連れです。心に淋しいとか、心にあの人がという様な事はなくなって来る。
 神様と二人でいつもお話し合をしておる様な、外から入って来るとかえって雑音になる様なものすら感ずる様になるのです。今日は私はそういう意味で、本当に神我と共にあり、同行二人という様なことを言うが、そういう信心を身つけて行く事のために、高芝峰子で行かなければいけない。分かると言う事なら、誰でも、神我と共にありと言った様な事は言うし、信心がなかってもです。天地金乃神様のおかげを頂かんでも、私は生きて行けると言う人は、一人もおらんのです。
 だから分かるだけなら、信心のなかもんでも分るです、けれどもその事実を、本当に事実としてです、それこそ朝露に裾が濡れる様な実感、それこそ分けて行けばサワサワと音がする様な実感をもって、いわゆる神の中を分けて通る様な実感がです、様々な私共の上に起きて来る、成り行きそのものの中から感じ取れる、神を察知させて頂けれる、おかげを頂いて行ったら、成るほど連れはいるまい、日に日に生きるが信心であると言う、生き生きとした生き方が身について来ると思うのです。
   どうぞ。